[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
02 エースの憂鬱
「何をさせているのよ」
一が飛び出して行って、数分が経過した。
教室では頬杖をついて携帯電話を玩んでいた優姫に、扉の外から声がかかる。
「あら、フジコじゃない」
優姫は顔を上げて、にっこりと微笑む。
視線の先には、背の高い女子生徒が扉に持たれて立っていた。
彼女の名は、桐島籐子(きりしま とうこ)で、フジコではない。しかし籐子がこの読み違えを訂正することを諦めて、すでに久しい。何度訂正してもフジコの方が絶対にかわいいから、と言って優姫が譲らないのだ。
しかし、腰に手を当てた立ち姿が恐ろしく決まっている。短いスカートから伸びる足はすばらしい脚線美なのだ。それに加えて、端正な容姿には思い切りの良いベリーショートがよく似合っていた。
彼女はあきれ返った表情で優姫を眺め、小さく溜息をついた。
「さっきそこで、戌亥(いぬい)とすれ違ったわよ。すごい勢いで走って行ったけど、今度は何をさせてるの」
「いちごみるくを買って来いと言ったら、フルーツ牛乳を買ってきたものだから」
「間違えたの?珍しいわね」
「違うわ。売り切れだったの」
「ああ、なるほど。コンビニまで走らせたのね」
哀れ戌亥――呟いた籐子は、さきほどまで一が座っていた席に腰掛けた。
「あの身体能力をパシリなんかに使っているなんて、ほんともったいないわ」
籐子は陸上競技部の次期部長であり、チームのエースである。
有名私立からの特典満載の勧誘をすべて蹴飛ばした理由は、この高校が家から近いという周囲が聞けば呆れるようなものだった。しかしそれで彼女が部活動に手を抜くかといえばそうではなく、せいぜい県大会止まりだった陸上競技部を全国規模へと引っ張り上げた。毎日鬼のような練習メニューを組みながらも脱落者がほとんど出なかったのは、一重に彼女の人徳があってこそ成せる業だったといえるだろう。
――顔の広い、運動部では筆頭エースである桐島籐子。
友人も少なく、インドアな優姫とは最も縁遠い人種とも言えたが、二人は籐子が一の身体能力に目をつけて勧誘したことをきっかけに知り合った。最初はその不遜な態度とあけすけな口調に閉口しいた優姫だが、籐子の裏表ないさっぱりとした性格によって心を開くことになった。
そんなこんなで、今に至るわけである。
「そうだ、姫。戌亥ったらまた告白されたらしいよ」
「ふうん。そう」
「気にならないの?」
同級生の問いかけに、優姫は心底不思議そうに答えた。
「どうして、わたしが気になるのよ」
「どうしてって……」
籐子は呆れ顔で優姫を見下ろし、持参したお菓子の袋を開けた。
成績は学年トップと愛らしい容姿であるこの少女は、何人もの男子たちを骨抜きにしている。定かではないが、学年の半数が彼女に振られた経験有という笑えない伝説を持っているのだから恐ろしい。しかしそんな武勇伝もなんのその、当の本人は色恋沙汰になるとどうも鈍いというか、なんというか――。
溜息まじりに菓子を放り込んだ籐子を見て、優姫はさらに追い討ちをかける。
「なあに、まずいの?それ」
――ほんと、お気の毒さま。
籐子が溜息をついたとき、勢いよく教室の扉が開いた。
「ゴール!」
「8分52秒」
「よっしゃ、間に合った!」
ビニール袋を片手に飛び込んできた一は、優姫によって極めて機械的に読み上げられたタイムを聞いてガッツポーズを決めた。
片道およそ1キロメートル、加えて校舎の階段や買い物を含むコースとしては、驚異的記録である。しかし当の本人は軽く息を弾ませているだけで、表情は涼しい。
この驚異的ともいえる体力こそが、籐子が一に対して粘り強い勧誘を続けた理由だ。
「……あれ、桐島。来てたのか」
籐子は立ち上がろうとしたが、いいよ、と一が制して優姫の前にビニール袋を置いた。
優姫はビニール袋からピンクを基調としたファンシーな紙パックを取り出すと、満足げに微笑む。それを見て一も同じように笑い、自分は屋上へ行くから、と弁当を掴んで教室から出て行ってしまう。優姫は一の背中を見送り、ストローの封を開けた。
「……よくできたお犬さんだこと」
頬杖をついて籐子が呟くと、まあね、と何でもなさそうに優姫が返す。籐子が持ってきた菓子の袋を入れようとビニール袋を手に取ると、いちごみるく以外にもまだ商品が残っていた。
「戌亥に食欲ないとか、言った?」
籐子の問いかけに、優姫は首を横に振る。
ビニール袋から取り出されたのは、栄養補助食品のゼリー飲料である。
「ああ、いやだ。あんたの顔色だとか、そういうのだけで判断したわけね。しかもタイムリミットつきのお遣いでわざわざ……」
「長年のしつけの賜物ね。だってあの子、最初は食事すらまともにできなかったんだから」
澄ました顔で言う優姫は、ゼリー飲料の蓋を開けて口をつける。口の中にさわやかなグレープフルーツの味が広がり、とろりとした感覚が喉を通り、胃の中へ滑り落ちてゆく感覚を楽しんだ。
「またそういうことを言う……」
呆れかえった籐子の眼差しを受け止めて、優姫は意味深に微笑んだ。
◇