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さあ、落ちておいで。
愛 犬 服 従 歌
12 天邪鬼の絶望
「あまのじゃく」
くすりと笑い、彼女は問う。
「ほんとうは、ほしくないんでしょ」
腰掛けている回転椅子をひっきりなしに回しながら、手の取った分厚い書類の束を手早く捲り、読み終えると書き込みをして、自分の足元へ捨てていく。そんな状況でそんなものを読んでいて酔わないのか、なんてことは問わない。
問うてみたところで、ろくな返事は返ってくるはずもないからだ。
「何が言いたいんです」
「そのままだよ」
すっぱりと真哉の問いかけを切り捨てて、彼女は尚も書類を捲り続ける。
椅子の傍にある豪奢なデスクには、山のように書類が積み上げられている。
気が遠くなるようなそれを見ても彼女の顔色は少しも変わらず、淡々と作業は続けられていた。
彼女が先ほどから読んでは捨てているのは、現役の医師たちが書いた論文だ。くだらない。つまらない。ばからしい。握られたボールペンが記すのはそんなコメントばかりで、批評らしい批評はひとつもない。ただ、同じテーマで彼女に論文を書かせれば、おそらく床に捨てられた論文など小学生の作文程度にしか見えなくなるのは明白だった。
真哉はため息をついてそれらを集めながら、ひとつにまとめていく。
「ただこわしたいだけで、ほしくなんてないの」
ボールペンが走り、しかし少女の視線は次の文面を追っている。
「こわしてたのしいのは、いっしゅんなのに」
ぱさり。
また、紙束が落ちる。
「ほんの、いっしゅんだけ」
ふふ、と笑みを零し、彼女は手を伸ばして新しい書類を手に取った。
まとった白衣の袖から、ちらりと赤い傷痕が覗く。白く華奢な手首に残る傷は痛々しく、それでも彼女はそんなものに構うことなく書類を捲る。
おそらく腰辺りまで伸びているやわらかそうな髪とは裏腹に、前髪だけは短く切りそろえられていた。伸びると鬱陶しいというそれは、伸びるたびに彼女が自分で切っているようだ。散発用でも何でもない普通の鋏で前髪を切っているときは、思わず止めに入って逆に驚かれた。
まあ、そんなことはどうだって良いことだが――。
「しらないって、しあわせだね。まぁ」
はらりと、論文がまた落ちる。
「きみがどれほどあほうでも、ぼくにはかんけいないからね」
そこで彼女は、初めて書類から視線を上げた。
澄んでいる――しかし、奥底は淀んでいるような、あまりにも深い瞳と対峙した。
「知ったような口を利くんですね」
呻くように真哉は呟くが、彼女は何も言わず静かに微笑む。
そしてまた書類に視線を落とし、鼻歌交じりにそれを読み始めた。
彼女はきっともう、何も言わないだろう。
真哉はまたため息をつき、書類を拾う。
大きめの白衣に包まれた彼女は、何もなかったかように淡々と書類を捲り続ける。
その理由も、真哉はすでにわかっていた。
なぜなら彼女は、絶対に干渉しない。
まるで、世界を傍観する神のように――。
人間の愚行を眺めて嗤い、それらを軽々とかわしながら先を行く。
これはもう、二週間も前の話だ。
そして、今日に至る。
真哉は帰宅後、早足で自室へと向かっていた。
さすがに走りはしなかったが、それでも早足であったことは否めまい。しかしそれも当然のことだ。
「優姫さまが、お部屋でお待ちです」
帰宅するなり、使用人にそんなことを言われれば――。
まさか、と笑いそうになった。
彼女が自発的に真哉の家へ、それも部屋で待つなんてことは一度もなかったのだ。
他人の家へ取り込まれ、将来の相手さえ決められても彼女は孤高であり続けた。すべてを奪われ、囚われとなった彼女にすれば自分に対する愛情など生まれるはずもない。ふたりの間にあるのはいつだって因縁で、優姫が心から真哉へ微笑みを向けたことなど、ただの一度もないのだ。
扉の前で一度立ち止まり、息をつく。
そしてゆっくりと開くとそこには――。
「優姫さん……」
麻生優姫が、そこにいた。
背筋を伸ばし、ソファに座る姿はいつもと何ら変わらない。
ただ――。
「ひどい、顔色ですね」
真哉が鞄を置いて近づくと、優姫は肩をすくめてみせる。
「別に、いつもと変わらないわ」
「だとしたら、あなたはすぐにでも検査入院だ」
「……いっそ、そうして欲しい」
「え?」
優姫は立ち上がり、真哉の前まで歩いてきた。
もともと華奢だった彼女は、数日顔を合わせなかっただけのはずなのに、また痩せたように見えた。白くても薄紅がさしていた滑らかな頬は色を失い、唇もまた、同じだった。
「考えたの」
優姫はまっすぐに真哉を見上げ、淡々と語る。
「家のことや自分のこと、この家のこと、あと……イチのことも。これまでのことも、あんたの言ったことも、調べてきたこともひっくるめて全部。イチだけは、イチだけはわたしのものだと思っていたし、そう思いたかった。わたしだって、わたしだけのものだって。でもよくわかった……あんたの言ったとおりだわ」
――イチもやはり結局人間で、彼は彼だけのものだということ。
「わたしにはもう、何もないのね」
そう呟いて微笑んだ瞳が濡れているのは、気のせいだろうか。
必死に笑みを作る唇が少し震えているのは、気のせいだろうか。
真哉の右手が自然に持ち上がり、病的に白い優姫の頬に触れた。
「あなたは、こんなときも笑うんですか」
泣けばいいのに――。
呟いた言葉にも、彼女はやはり笑みを返す。
「全部、捨ててきたから」
そう呟いて瞳を伏せると、そのまま真哉へともたれかかった。
「全部あげるわ」
「何、を……」
「もういらないから、いっそからっぽにして。全部取り上げて」
この心さえ、鬱陶しい――。
呟かれた声には悲しみも怒りもなく、ただ、果てのない空虚があった。
抱きしめては、こない。
ただ、もたれているだけだ。
許婚になって数年、彼女から触れられたことはただの一度もない。
そっと背中に腕を回すと、優姫は力なく真哉の背に掌を当てた。
初めての、抱擁だった。
――しかし。
それはまるで投身自殺を思わせる、悲哀に満ちたものだった。
なんだろう。
真哉は言いようのない焦燥感に苛まれながら、彼女の頼りない背中に掌を滑らせる。
ずっとこうなればいいと思ってきた。
すべて壊して、全部自分のものになればいい、と――。
それなのに、どういうことだ。
彼女はここにいるはずなのに、どこにもいない。
そして真哉はふと、気づいてしまった。
手に入れたのでない。
優姫はもう、自分すら放り捨てたのだ。
心すら置いてきた彼女は、すで麻生優姫ではなくなっていた。
◇
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