◇
ぜんぶ、きみだ。
濃紺の先に、
――たまには趣向を変えようか。
きっかけはそんな、田沼の発言からだった。
何を思ったか彼は父親の手拭を持ち出してきて、楽しそうに笑った。
最初は抵抗していた夏目だが、いつしか攻防はじゃれ合いへと変わり、いつの間にか夏目の視界はすっかりと濃紺の手拭に覆われていたのだった。
いつも色々と見えすぎているせいだろうか――。
突然奪われた視界に、夏目の掌は不安げに彷徨った。
「おい。田沼、」
「うん、ここにいるよ」
やさしげに、それでも悪戯っぽさは否めない田沼の声が夏目の耳をくすぐった。
掌を捕らえられ、指を絡められる。
ああ、田沼だ。
驚くほど瞬間的に、夏目はそれが田沼だと確信した。
それほどに知りすぎている、彼の掌の感覚――。
「解いてくれ」
ごつくはないが、大きくて骨ばった手が耳の横に触れると、自分の体温がじんわりと上がるのを感じた。
その掌の行方が、まったくわからない。
普段の自分が、どれほど視覚に頼って物事を把握しているのかを今更思い知った。
不意に恐怖を覚えた夏目を察したかのように、田沼の手が一度離れる。
「大丈夫」
田沼は笑みを含んだ口調で返して、
「俺しかいない」
わかるだろう、と夏目の頬に再び触れてみせる。
――だから。
その手がだめなのだと言うのに。
いや、言ってはいないけれど。
小さく溜息がつき、自分でもその吐息にわずかな情欲が交じっているのを自覚した。
だって、田沼しかない。
いつだって視界の端に映ってきた妖の存在も、こう視界が閉ざされては感じることも難しい。
――何より。
今夏目の感覚のすべては、田沼要という存在に集中していた。
皮膚に触れる、乾いて少しひんやりとした肌の質感に酔い。
割れ物に触れるかのように、繊細な指使いに囚われた。
「なつめ、痛くないか」
ときおり気遣うように呼びかけられる声に、耳を支配される。
全部、全部埋められる。
埋め尽くされる。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、そして味覚さえも。
すべて田沼に、支配されている。
感覚すべてを絡め取られ、夏目は呻くばかりで身動きが取れない。
それなのに、
「痛……く、ない」
まったく不愉快じゃない。
ほとんど無意識に、手を伸ばした。
多分今触れたのは、頬だろうか。
「……本当に?」
執拗さすら匂わせる、彼のやさしさに包まれる。
背中を這う掌も、耳元をくすぐる吐息も、何もかも――。
田沼だけだ。
そう思うだけで、肌が粟立った。
「ああ」
触れた――おそらく――頬を引き寄せる。
彼の気配を感じ、感覚だけを頼りに唇を寄せた。
よく知った熱くやわらかな感覚を覚えたとき、掌に触れた頬がわずかに身じろぎするのを感じた。
それがおもしろくて、夏目は再び唇を寄せた。
掌に触れる肌の体温は、まだ上がるはずだ。
いつもの彼はもう少しだけ、熱い。
「なぁ、夏目」
「ん?」
「おれだけに、なってるか」
頬に触れていた掌が首筋へ落ちたかと思うと、不意に唇が落ちてきてきつく吸われた。
音がつくほどの口付けに、夏目の肩が少し震える。
触れる掌が、ひどく熱い。
「今だけでいいから、さ」
ああ――もう。
「おれだけ感じてて」
彼の言葉で、今更だがなぜ彼が手拭など持ち出してきたのかを知った。
このやわらかい布の正体を、やっと思い知った。
「ああ。本当に田沼ばっかりだ」
なだめるように囁くと、指を絡め、唇を寄せて彼に応えた。
触れ合う舌も、指先も、何もかも熱い――。
結局手拭は、外さなかった。
◇
◇
[6回]
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