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すべて、置いてゆくから――。
愛 犬 服 従 歌
10 すべて捨てゆく
――以下、麻生優一博士の記録より抜粋。
彼のことを1と呼び、彼女のことを2と呼ぼう。
彼らこそ、至高にして最上のサンプルになるに違いない。
遺伝子の素質と育成環境、そして何より、稀に見る一卵性の男女の双子なのだ。
サンプル1は身体能力。
サンプル2は思考能力。
無限の能力と、無限の知力を彼らに――。
(略)
なぜだろうか。
彼らはどちらも笑わず、そして泣かない。
どんなものも見せても、聞かせても。
どんなことをしてやっても、笑顔はもちろん、瞳を潤ませることもない。
能力を特化させた影響か、欠損が生じているのかもしれない。
しかしそれも、仕方あるまい。
すべては研究のためだ。
(略)
ああ、わたしはどこで間違えてしまったのか。
彼らはもはや、われらの手には届かぬ領域へ到達しようとしている。
もうすべてが手遅れなのかもしれない。
しかしそれでも、わたしには責任がある。
彼らを創った、創造者としての責任だ。
だから、わた
――ここで、記録は途絶えている。
「これ、は……」
一は書類を見つめ、震えた声で呟いた。
「神楽坂が隠してた」
優姫はベッドに座り、膝を抱えた。
「真哉にもらったのよ。全部書いてあった。あんたが父さんの研究対象だったことも、父さんに何をされてきたのかも」
一の手からファイルを受け取ると、優姫はおざなりな手つきでそれをサイドボードへ置いた。
「どうして、まだわたしから離れないの」
そう、それだけが不思議だった。
研究は、とうの昔に終止符を打たれている。
突如終わりを告げたそれが、どういった形で終了したのかははっきりとは記されていない。しかし父親の記録が事実であるなら、何か想定外の事態により強制終了したことは明白だった。そしてその事態に一が関わっていたことも――。
優姫は顔を上げて、問う。
「終らせたのは、イチなの?」
父の死は事故だと思ってきた。
ずっとそうだと、信じてきた。
しかしこの資料を読む限りではまるで――。
一は口を開き、諦めたように肩の力を抜いた。
「……ああ、そうだ」
こみ上げたものを飲み込んで、優姫は再び膝へ顔を埋める。
優姫の父親がほぼ単独、それも独断に近い形で行っていたものだ。資料はいくつか残っているが、独特のニ理論とネットワークで構成されたそれは解読が困難なものであった。おそらく誰も引き継ぐことができず、ひっそりと闇に葬られたのだろう。
それなのに――。
優姫は再び顔を上げて、ゆっくりと立ち上がった。
ああ、今自分はどんな顔をしているのだろう。
一に近づき、彼の手を取る。
「じゃあ、」
いつも優姫よりも体温が高いはずの一の手は、ひどく冷たかった。優姫は自分の手を振り払おうと身を引きかけた一の手を強く掴み、そしてそのまま自分の首筋へと持っていった。
「また終らせて。わたしのことも、憎かったんでしょう」
「……優姫」
「冗談よ」
優姫は掴んでいた手を離し、空になった自分の手を見つめた。
「わたしを殺したいと思わなかった?」
「思わない」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃない。優姫を殺したら、生きていく意味なんかなくなる」
本当に、大真面目な顔でそんなことを言う。
「……だから、ここに残ったのに」
――すべての人間を超越した、最高の人間を創る。
麻生優一の記録には、そんな内容があった。
真哉の資料によれば、一は身体能力や運動神経に特化したタイプとして製作されていたらしい。普段の一を思出だせば、そう言われてしまった方がむしろ様々なことに納得がいく。手を抜いてみたところで、さまざまな分野において一の能力が超越していたことは隠しようのない事実だった。そしてこの研究を物理的に崩壊させたのは、彼の力だったとするならば――。
「……ねえ、イチ」
優姫は呟き、淡く微笑んだ。
「わたしも研究対象として創られたのかしら?」
自分に触れる父の手を、思い出す。
あれは愛情なのか、それとも――。
まっすぐに優姫を見つめたまま、一は首を横に振った。
「……先生は、優姫を愛してたよ」
自分たちとは、違う。
痛々しいほどに真摯なまなざしで優姫を見据え、説き伏せるように――。
「そのために、俺たちを創ったんだ」
「じゃああんたは、まだその命令を律義に守っているの?」
吐き捨てるように言い、優姫は嗤った。
「研究を崩壊させてせっかく鎖もなくなったのに、あんたはまた新しい鎖を選んだの?」
なぜだか泣き出したい気持ちに駆られながら、優姫は力なくベッドに腰を下ろした。
「ばかじゃないの……」
「優姫、俺は」
気遣うように腰をかがめたすきをついて、優姫は一の腕を掴むと思い切り引いた。
いくら彼女が非力であっても、それは少なからず動じていた一の不意をつくには充分だった。一はあっさりと傾き、ベッドへと倒れこんできた。それでも咄嗟に両腕を優姫の脇につき、彼女の上に倒れこむには及ばなかったのはさすがと言うべきか。
「ごめん」
優姫が引き倒したというのに、一は謝罪し、慌ててどこうとした。
しかし優姫の手が彼の腕をすかさず掴み、それを阻んだ。
「聞いて」
「優姫、」
「いいから黙って聞きなさい」
抑えつけるように強い口調で言葉を遮ると、条件反射のように一は口をつぐんだ。
「真哉に言われたわ。わたしが持っているものなんて、もう何ひとつないんだって。気に入らないけど、でも事実なのよ。わたしにはもう、何もないの。これから先に待っているのは、わたしの意志も、思いも、感情すら無意味な世界よ。今度こそきっともう、人でなくなる……」
首筋に触れた、あの冷たい手を思い出す。
――アナタノ所有物ナド、何ヒトツナイ。
そう、優姫を待つのは、きっとああいう場所なのだ。
それに一を巻き込もうなどというのは、ただのエゴでしかない。夢も希望も、幸福もない。あるのは支配と欲望ばかりで、人が踊ったり踊らされたり――奈落の底のような世界なのだから。
きっと自分は、果て逝くまで強固な檻に囚われて踊らされる。
「でもあんたは違うでしょ」
まだ、戻ることができる。
「犬なんて、ばかげた遊びはもうおしまい」
優姫はそこで手を伸ばし、一の頬に触れる。
冷え切った自分の手に驚いたのか、一の肩が小さく跳ねた。
掌から伝う熱に蘇るのは、出会った日のこと――。
あの日触れた彼はひどく冷え切っていて、触れるとひどく怯える目で優姫を見上げていた。
そして今は、痛みを堪えるような表情で優姫を見下ろしている。
張り詰めた頬に指を這わせ、いたわるようにそっと撫ぜた。
「……ごめん」
ほとんど無意識に、優姫の唇からそれは零れた。
謝罪どころか、言葉を発したことすら曖昧だった。
それでも一の瞳は一瞬見開かれ、すぐに堪えるようにまた眇められた。
「首輪は解くから、どこへなりと行きなさい」
きちんと、笑えているだろうか。
声は震えずに、彼の耳へと届いているだろうか。
頬に触れていた指が、彼の襟首を掴んでぐっと引き寄せた。
双方が少しでも動けば唇が触れ合う距離で、優姫は告げた。
「さようなら」
唇は結局触れぬまま、ふたりの距離は再び開く。
笑顔も、たった一度のこの涙も。
守り続けたこの心さえも。
すべてここに捨て置いてゆくから――。
どうか。
どうか、自由に。
◇
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