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恋愛なんて、そんな甘いものじゃない。
愛 犬 服 従 歌
04 この胸に巣食うもの
「遅かったじゃない。どこへ行ってたの」
教室へ戻った一を出迎えたのは、探しに行ったはずの優姫だった。
松山の姿はすでになく、窓の外は日が落ちて薄暗い。薄暗い教室では、優姫の白い頬がひどく浮いて見える。
途方もなく、白い――触れることなんて、絶対にできない。
「いや、少しトイレに」
「二十分も?ずいぶんこもっていたのね」
「腹の調子がいまいちで」
「……ふうん、そう」
長い髪をひるがえして優姫は立ち上がった。立ち上がっても、その背丈は一の胸ほどしかない。
出会ったときはそう変わらなかった背丈の差が、過ごした時の長さを教える。いくつになっても白く小さなままの彼女は、夕闇の中でひどく儚げに見えた。
「さっさと帰りましょう。夕飯の時間に遅れると佐藤さんがうるさいもの」
「ああ」
黙ってゆっくりと歩いていると、どうかしたの、と優姫が呟く。
「どうかって、何が」
「やけに静かじゃない。いつもなら夕飯の献立をひとりで想像して、ぶつぶつ言っているのに。やっぱり調子が悪いの?」
そう言って、覗き込んでくる。
冷たいように見えるが、彼女は意外と心配性なのだ。
こんな風に余計な心配をかけるなんて、本当にどうかしている。一はわからない程度に小さく息をついて、明るい声で答えた。
「そんなことない。もう平気だよ」
「なら、いいけど」
まだ訝しげな優姫の視線を振り切るように、一はさらに続ける。
「おれの勘だと、多分夕飯は焼き魚だな」
「じゃあ……わたしは豚のしょうが焼きに賭ける」
「その賭け、ペナルティーとかなしだぞ」
「そんなのいやよ。つまらないじゃないの」
優姫と他愛のない会話をしながらも、一の頭には数分前の出来事が根強くこびりついたままだった。
――好きです。付き合っていただけませんか。
絵に描いたように誠実で、まっすぐな告白だった。
しかし、一はそれを断った。
「ごめん、きみとは付き合えないよ」
「他に、好きな人がいるんですか」
問い返す彼女の大きな瞳が泣き出しそうに揺れ、少し慌てる。
「……好きと、いうか」
そこで一は、言葉に詰まった。
自分が優姫に対して抱く想いは、世間一般的に言われる恋愛感情――そう、例えば目の前の彼女が今自分に向けてくるような、まっすぐな純粋なそれとはどうも違うような気がしたからだ。
もっと淀んでいて、重苦しく、全然うつくしくないもの――。
どう答えたものか、と少し考えたのち、一は重い口を開いた。
「最優先にしたい人がいる」
智子は傷ついたように瞳を眇め、悲しそうな声で問う。
「それは、麻生先輩ですか?」
「うん」
「恋人ではないと、聞きました」
「うん、恋人じゃないよ」
しばらくの沈黙――智子はまだ俯き、何か言葉を探しているように見えた。
少し待つと、彼女は今にも泣き出しそうな顔を上げた。
「二番目でも良いと言っても、だめですか?」
痛々しくて、ひどく切実な、切羽詰った問いだった。
しかし、頷くことはできない。
「だめだね」
「どうしても?」
「俺は、ひとつのものしか大切にすることができない」
優姫しか、大切にできない。
これが愛情ではなく、歪んだ独占欲だとしても――彼女を失うことは、できない。そんな自分に、彼女以外の少女を縛る権利などあるわけがない。優姫という名の重くやわらかな鎖に縛られて、いつか自分の首を絞めて自滅するようになったとしても、それが一の選んだ道だ。
「懐が狭いんだ。本当に、申し訳ないけど」
「いいえ。こちらこそ突然こんなこと言って、すみませんでした」
智子は悲しそうに一を見上げたあと、ありがとうございました、と丁寧に礼を言って、頭を下げた。そして軽やかな足取りで駆けて行った。
「そういえば、真哉(しんや)から電話があったわ」
そんなことを思い返していたが、優姫の声で一ははっと我に返った。
「なんて?」
「今日神楽坂邸に来るようにって。」
「は、今から?何で朝言わないんだよ。俺が佐藤さんに怒鳴られるんだぞ」
携帯電話を怯えたように見つめて一が抗議すると、優姫はうんざりしたように肩をすくめた。
「仕方ないでしょ、さっき電話があったんだもの。それに佐藤さんには真哉から連絡するって言ってたから平気よ」
「珍しいな。いつもなら絶対前日には連絡があるのに」
知らないわよ、と不機嫌そうに呟くと、優姫はひどく嫌そうにため息をついた。
「大事な話があるんですって」
麻生家と神楽坂家の関係は、少し複雑だ。
優姫は10歳のとき両親を事故で一度に失い、天涯孤独の身となった。彼女に残されたのは莫大な遺産と大きな病院、そして父親を失った直後に拾った一という犬一匹だけだった。幼い少女に残された莫大な遺産をめぐり、麻生家は大騒ぎになった。
顔の知らないような親戚や、両親の友人、挙句の果てには父親の妾を名乗る女まで現れた。さらに、優姫の周りで不可解な事故や事件が起こり始めた。このままえは、命まで獲られかねない。
そんなときに現れたのが、神楽坂家である。
神楽坂は日本でも五指に入るといわれる財閥で、あらゆる業界でその力を発揮していた。当時神楽坂グループで社長が難病を患ったとき、優姫の父が命を救ったのだという。彼らは以来意気投合し、機会があれば顔を合わせるようになった。優姫の父親はこうなることを予測していたかのように、友人に遺書を渡していたらしい。
――娘はやるから、病院を救ってくれ。
たった一枚の便箋だったが、それは恐ろしい力を発揮した。麻生家がいかに財力を持っていたとして、神楽坂家に比べればたいしたものではない。月とスッポンとまではいかなくとも、象と鼠程度には実力差があるのだ。
以来優姫は、神楽坂邸の敷地内にある離れに一、そして世話係として麻生家からついてきた佐藤とともに暮らしているのだ。優姫が大人しく神楽坂で暮らしている限り、麻生家の病院の安寧は約束される。
優姫の身柄と、引き換えに――。
「逃げる?」
思わず提案した一に、優姫はきっぱりと首を横に振った。
「行くところなんてないもの」
そして、神楽坂家へ入った。
彼女の傍に立つのは、世話係の佐藤と、専属SPという肩書きで連れてきた一だけだ。それでも優姫はまっすぐ背筋を伸ばし、堂々と神楽坂の敷居を跨いだ。怯えるようすもなければ、媚を売るそぶりも見せない。何でもないような態度ではあったが、両親を亡くしたばかりの少女の立ち居振る舞いとしては出来すぎていた。
そして彼女は、歓迎の会食の席できっぱりと宣言した。
「わたしは医者にはなりません」
神楽坂家の人間がこぞって顔を見合わせたが、一切物怖じすることなくさらに続けた。
「病院も返して頂かなくて結構です。わたしのことも好きにして頂いて構いません。ただ、」
一は、何も言わなかった。
ただ、傍にいた。
そして、一には見えていた。
か細い膝の上に組まれた小さな手が、テーブルに隠れて震えていたことを。
思わずそっと握り締めると、固く結ばれていた優姫の手から、ほんの少し力が抜ける。
そして彼女は優雅に微笑み、こう言った。
「犬を飼うことだけは、許してくださいね」
◇