◇
ああ、なんてことだ。
こうも美しいものなのか。
熱に浮かされ、死線をさまよって。
鬼と、出会った。
鬼の棲む森(前)
自分の思い出を占めるほとんどは、自室の天井の染みである。
そう言っても過言ではないほどに、田沼要は寝込むことの多い子どもだった。元気に遊び回っていたと思えば、ぱたっと電池が切れたように倒れてしまい、そのまま数日は動けなくなるのだ。医者に診せても原因ははっきりせず、熱冷ましも効かない。命を取られるほど重くはないし、嵐が去るのを待つようにしてただじっと堪えていればそのうち起き上がれるようになる。どちらにしろ原因は病ではないと、田沼自身にはよくわかっていた。田沼が倒れるのは、決まって屋敷の敷地内や外で人ではないものと遭遇したときだったからだ。
アヤカシ。
寺の住職である血のせいだろうか。田沼には人でないものが傍に寄ってくると、姿こそ見えないもののその存在をその身に感じ取ることができた。それらの気にあてられているのかもしれない、と父は言い、田沼も恐らくそんなものだろうと思っていた。
「それにしたって、今回は長いわね」
友人である多軌透の言葉に、田沼は小さく苦笑いを返すことしかできなかった。
数日で回復することがほとんどだが、今回はすでに寝込んでから一週間を越えている。高熱でうつらうつらとしているものだから、田沼自身はすでに何日経ったのか思い出せなくなってきていた。
多軌は大きな屋敷の一人娘だが、容姿は愛らしいが変わり者として有名だった。良家の娘でありながら、ひとりでふらついていることが多く、今回も供の一人も連れず田沼家へ見舞いにやってきたらしい。
「心配かけて、すまない」
かすれた声で詫びた田沼に、多軌は明るく首を横に振った。
「こちらこそ押しかけてごめんなさい。早く元気になるといいわね。北本くんが将棋の相手がいないってぼやいてたわよ。西村くんは、またラムネの涌く泉を見つけたから早く行こうって」
「そうか……」
気の利いた言葉を返したいのに、熱に浮かされた頭はうまく働いてくれない。ほとんどため息のような返事を聞いて、多軌は表情を曇らせた。医者に診せたのかと聞いたら田沼は首を振った。
「熱、つらそうね。疲れないうちに帰るね」
多軌が立ち上がり部屋から出て行くと、田沼はほっと息をついた。
友人たちに早く会いたい。
しかしおそらく――。
天井に巣食っているあの黒いもやのようなものが消えない限り、身体を起こせそうになかった。
田沼家の屋敷を出て早足で歩きながら、多軌は考え込んでいた。
医者に診せても良くならない。
以前、田沼が言っていたことを思い出す。詳しくは話してくれないが、幼い頃から抱えている持病のようなものだと本人は言っていた。数日寝ていれば良くなるし、命の危険はないのだと――。
「でも、長すぎるわよ……」
うめくようにつぶやき、多軌はさらに足を速めた。
そう、今回はいつもよりずっと長かった。寝込んでいる間はまともに食べられない上に、長引く高熱は確実に彼の体力を奪っていく。
まるで、憑き物にでもあったかのようだ。病ではないなら、あれは憑き物ではないのか。だから、医者には治せないのではないか。事情を濁す田沼の態度も、それならばうなづけた。しかしすべては多軌の想像でしかなく、何の解決にもならない。
「あれ、多軌じゃないか」
かけられた声に、はっと足を止める。
「北本くん、西村くんも」
いつものふたりが、仲良く団子をつまんでいる。
北本は少し横にずれて多軌も腰掛けるようにすすめた。団子もすすめられが、どうも口にする気にはなれず断った。普段どおりにと努めて微笑んだが、気楽そうな彼らは意外と聡いところがある。
「田沼の具合、そんなに良くないのか」
北本の言葉に多軌がうなづくと、西村はため息をついた。
「あいつ普段はわりと元気なのになぁ」
「本当にね」
「しかし、医者に治せないってのが困りものだな」
考え込んだ北本に西村も並んで唸っていたが、不意にはっと顔を上げた。
「そういやぁ、西の森に鬼が住んでいるって噂を知っているか」
「なんだよ、突然。ふざている場合か」
北本が呆れ顔で咎めるように言ったが、西村はめげずに続けた。
「いやいや、ふざけてなんかいない。医者にも治せないっていうならまじないかなと思ってさ。おれもじいさんから聞いたからよく知らないんだが、頭の変な女が住んでいたらしいぞ。何もない場所で喋っていたり、笑ったり怒ったりしていたらしい」
「じいさんの言うことなら、かなり昔の話じゃないのか」
「まぁ、それもそうだが」
「お前の言うことは、なんだってそういい加減なんだよ」
「なんだよ、おれだって良かれと思ってだな」
いつものようにふざけて小突き合いはじめた彼らに別れを告げ、多軌は家路を急いだ。
医者でも治せないなら、まじない――。
たわ言のようで、西村の言葉はある意味的を射ているような気がしたのだ。
多軌の祖父は代わりもので、人の目に見えないものを見たがっていた。家にはその資料がたくさん残っている。調べてみれば、何か活路が見えるかもしれない。
落ち込んでもいられない。
「西の森って、言っていたっけ」
夕日を背に、多軌は西の方角を見やった。
町の西にある森は深く、ひとりで入ることは固く禁じられていた。魔女の噂など聞いたことがなかったが、あの森ではよく人が迷うのだ。幾人かは見つからないままだった。
――神隠しの森。
これが、この森の別名であった。
そして、数日が経ったが解決の糸口は見えず――。
結局多軌は、あの森の入り口へ立っていた。
北本や西村も誘おうか迷ったが、このような危ない場所へ大切な友人を連れてくるのは躊躇われた。頼めば二つ返事で付き合ってくれるに違いないが、そんな彼らのやさしさに甘えるわけにはいかない。危ない橋を渡るのは自分ひとりで十分だ。
「大丈夫よ。磁石だって持って来たもの」
きっと前を見据え、多軌は一歩踏み出した。
確かに森は深く、少女一人飲み込んでしまうにはきっと造作ないだろう。深い森は磁場さえ狂わせ、人を迷わせるのだが、多軌にはそんな知識はなかった。簡単な地図と磁石だけを握り締めて入るのはあまりにも愚かな行動だったが、彼女の思い切りの良さは立ち止まることを許さなかった。
自分のためにこんなことをしていると知れば、違う意味で田沼は卒倒するに違いない。
ざくざくと草木をかきわけ進んでいくと、どんどん森は深くなっていく。
「魔女の家なんて、どこにあるのかしら」
つぶやいたとき、背後でがさりと物音がして多軌は肩を跳ね上がらせた。
振り返ったが、そこには草木が茂るばかりで、獣一匹いやしない。しかし森の中にいるのだから、野生動物がいて当然だ。そこで多軌ははたと気がついた。
なぜ、見えないものばかり気にしていたのだろう。
野犬や熊など出たときには、ひとたまりもないというのに――。
ぞくりと背筋が冷たくなったとき、またがさりと物音がした。
「ひっ」
「こんなところで何をしている」
落ち着いた、男性のような声がした。
「小娘が一人で入っていい場所ではないぞ。食われたくなければ去れ」
しかし目の前にいたのは、真ん丸い狸のような、猫のような獣だった。
人形のような体躯に、人を食ったような不遜なまなざしを持っている。ただの獣ではないことは一目瞭然だが、なにより人の言葉を喋ることに多軌は驚いていた。
「……にゃんこが、喋った」
「にゃんこだと。何を言うか!私はそんな下等生物では」
「か、か、か……」
「か?」
「かわいいー!」
次の瞬間、脱兎の如く獣は駆け出していた。
それもそのはず、突如少女が突撃するように手を伸ばして飛び込んできたのである。
「ああ、待ってにゃんこ!」
「待つかボケー!」
多軌は無類の猫好きであった。
先ほどまでの怯えはどこへやら、爛々と目を輝かせて多軌は獣を追った。愛らしい体躯、加えて喋る猫である。そんな生き物には今を逃すといつ出会えるかわからない。申し訳ないが田沼のことは今だけは吹き飛んでしまい、恐ろしいほどの執念と情熱を持って走った。そんなこんなで森中を追いかけっこしたのち、ついに多軌は一軒の小屋へ辿り着いた。
古く粗末な小屋に着くと、獣は迷いなくそこへ飛び込んだ。
「助けろ夏目!」
「うわっ、どうした先生!」
多軌も獣を追って小屋へ飛び込んだ。
そして息を切らして顔を上げると、獣は一人の少年に抱えられていた。
果たして、これは少年なんだろうか。
髪は短く切り揃えてあるが、着物をまとう首筋や手足は華奢で色白だった。何より顔つきが美しく、どこか少女じみている。まさか、この少年が鬼なのだろうか。喋る獣は彼をよく知っているようだった上、こんな小屋にひとりで暮らしているなんて尋常でない。それに鬼の中には恐ろしく美しいものがいて、人を魅了して食べてしまうものもいると聞いたこともある。不安がよぎったが、踵を返して逃げ出せるほどに多軌の体力は残っていなかった。
慣れない激しい運動で、すっかり息が上がっていたのである。
一方で少年は驚きが隠せないようすで多軌をまじまじと見つめ、獣に尋ねた。
「先生、この人はいったい……」
「知らん。いきなり叫んで追いかけてきたのだ」
しばらくは話すこともままならず、膝に両手をついていると、すっと椀が差し出された。
「どうぞ。よかったらかけて下さい」
控えめに微笑まれて、多軌は少し安心した。どうやら、多軌をとって食うつもりはないらしい。
冷たい水を飲み干して腰掛けると、やっと一息つけて口が利けるようになった。
そして少年に鬼の噂を聞いてこの森へやってきたこと、そして原因不明の病に侵されて臥せっている友人について話した。少年は誠実そうなまなざしで多軌を見つめ、そして小さくため息をついた。
「噂の鬼というのは、きっと俺の祖母のことだと思う。人ではないものが見えて、そっち方面の力はかなり強かったという話は俺も聞いたことがあるから。ただ残念ながら彼女は人間だったし、ずいぶん昔に亡くなっていて俺もよく知らないんだ」
申し訳なさそうに言う少年は、ちっとも恐ろしくなどなかった。
「じゃああなたも人間なのね」
「もちろん」
「……人ではないものが見えるの?」
少し躊躇ったあとうなづいた少年の横顔はひどく物憂げで、どこか悲しい。
同世代の人間に見ることはない、深く切ないまなざしを彼は持っていた。
「あなたの名は、なんと言うの?」
「夏目」
しばらく他愛のない話をした。
彼は身寄りがなく、幼少時は親戚の家をてんてんとしていたという。しかし見えないものが見えてしまうためにうまく人付き合いができず、昔祖母がひとりで暮らしていたこの家につい最近越してきたそうだ。
まじないなど知らないと言っても、人ではないものが見える彼ならば――。
気づけば多軌は彼の手を握り、身を乗り出していた。
「お願い、夏目くん。わたしの友人を助けて」
◇
[7回]
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