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「犬はいいわよ」
笑うでもなく、怒るでもなく彼女は言った。
「自分が主だとしつけてしまえば、わたしがどんな風に振舞ったって傍へいてくれる。わたしが待てといえば、死ぬまで食べない。取って来いといえば、地の果てへだって走るわ。本当に従順で、しかもすごく賢いの。何より、絶対に裏切らないでしょう?」
そこで、カップを持ち上げてミルクティーをすする。
「だからわたしは犬が好きよ」
たったそれだけの所作が、恐ろしく絵になる。
白い肌は陶器のようになめらかで、大きな瞳はよく見ると少し鳶色がまじっているように見えた。色素の薄いやわらかそうな髪がゆったりと肩に流れて、精巧過ぎる容姿はまるで人形のようだ。
しかしそんな容姿とは裏腹に、彼女の有する肩書きは女王または暴君――。
女子の人気を集めて止まない戌亥一を犬扱い、使いっぱしりにしているのだ。
「えっと……」
佐伯智子は、気まずそうに目の前のケーキに視線を落とした。
静かな店内には控えめなボリュームでジャズが流れている。まったく知識がない智子には、曲名どころかそれが本当にジャズなのかさえ曖昧である。好きなものを頼めと言われたから好物のフルーツタルトとカフェラッテを頼んだものの、緊張のせいか胸がつかえて手をつけることができない。
「どうしたの、食べないの?」
「いえ!いただきます」
慌ててタルトを口に放り込んだが、なんだかあまり味がしない。
味云々ではなく、シチュエーションが悪すぎたのか。
げんなりしながら、数十分前の出来事を回想する。
「少し、お話しがしたいのですが」
掃除中の彼女を訪ねると、ひどく青い顔をして窓拭きをしていた。
「いやよ、面倒くさい」
そして必死の誘いに、あっさりと首を横に振った。
しかしここで諦めるわけにはいかなかった。
「じゃあここでいいです」
智子はきゅっと両手を握り締めると、一歩前へ踏み出した。
唇が、膝が、そしてなのより心臓が恐ろしく震えていたけれど――。
どうしても知りたかった。
知らなければ、このみじめで幼稚な恋の終止符を打てない。
それでは永遠に、前へ進めないような気がした。
「どうして、戌亥先輩は犬なんですか?」
そこで、彼女ははじめて窓を拭く手を止めた。
そして意外なことに、
「知りたい?」
恐ろしく、きれいに微笑んで見せたのだ。
智子が慌てて頷くと、彼女は雑巾を近くにいた男子生徒に押し付けて歩き出した。
「行くわよ」
そして智子は、高級車に乗ってこのカフェへやってきたのだ。
これが、麻生優姫――。
改めて目の前にある優姫の顔をまじまじと眺め、智子はコーヒーを一口飲んだ。
「どうして、来てくれたんですか」
思ったままに尋ねると、優姫は小首を傾げてわずかに微笑んだ。
たったそれだけだが、恐ろしく美しい――。
「はじめてだから」
「何がです?」
智子が首を傾げると、優姫はにっこりと微笑んだ。
人を食ったような、意味深なそれ――。
「イチに振られてわたしに八つ当たりする女はね、怒り狂うか泣くかどっちかだった。不等だとか、狂ってる、とか言ってね」
「それもどうかと思いますが」
確かに困惑する気持ちがなかったといえば、嘘になる。
しかし、そんなことはどうでもよくなるほどに、一の態度は決然としていた。まっすぐ智子の顔を見つめて、優姫以外大切にするつもりはないのだと言ってのけた。
――コールド負け。
大袈裟なのかもしれないが、そんな気持ちになったのだ。
だからせめて、少しでも知りたくなった。
そこまで彼が執着する、麻生優姫という人間を――。
優姫はふっと顔を上げて、まじまじと智子の顔を眺める。
「な、なんですか」
「本当に知りたい?」
大きな瞳はどこかあどけなくて、吸い込まれそうに澄んでいた。
幼さの残るそのまなざしは、女王だとか暴君だとか、そんなあだ名とはひどく遠いものに見える。
「全然、きれいじゃないのよ。愛だとか恋だとか、そんなものを想像しているなら聞かずに帰った方がいいと思う」
幼さを覗かせたかと思えば、そんなことを言う。
思いがけないギャップに戸惑いながらも、智子しっかりと頷いた。
「聞かせていただけるなら」
ミルクティーを一口含み、優姫は微笑んだ。
それはこれまでとは違う、かすかな儚さを帯びた笑みだった。
◇