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06 臆病者の忠誠
優姫の機嫌が、最低だ。
一は数学の授業も上の空で、ちらりと優姫のようすをうかがった。
昨日神楽坂真哉の部屋へ寄ってからずっと、である。
なにやら重要な話があるとかで呼び出されたのだが、一は連れて行ってもらえなかった。じりじりと待っていると一時間程で優姫は戻ってきたが、なにやらひどく不機嫌だった。そして離れへ戻ると夕飯も食べずにそのまま自室へ篭ってしまった。
何かあったのか、と一は何度も問いかけたけれど、答えはすべて同じ。
――別に、たいしたことじゃないわ。
まさか、神楽坂籐真に何かされたのだろうか。悶々と考え込んでみたものの、一は神楽坂家に気軽に電話できるような身分ではない上、真哉の携帯電話の番号も知らないので確かめようがない。こういうとき、犬という身分は非常に不便である。
翌朝の朝食には出てきたものの、白い顔はさらに色を失くしていた。
よく眠れなかったようで目の下にクマが浮き出ており、朝食にもほとんど手をつけなかった。フルーツを添えたヨーグルトをほんの少し口にして、もういらない、と洗面所へ消えてしまったのだ。
「真哉さんに、何を言われたんだ」
昼休みに問うと、優姫は不機嫌そうに眉を寄せた。
「しつこいわね。たいしたことじゃないって言ってるじゃないの」
「じゃあなんで、また食えなくなってるんだよ」
一は一向に中身の減らない弁当箱を指差して、顔をしかめた。
優姫の精神状態のバロメータはわかりやすい。
彼女は不安定になればなるほど、食事に支障をきたす。目に見えて食べられなくなり、ひどいときは倒れてしまう。年齢よりも幼く見える外見や、平均よりもずいぶん低い身長はそこに由来しているのかもしれない。
両親を事故で亡くしたときも、ずいぶん長いこと食べ物が喉に通らなかった。
「何でもない。ただのダイエットよ」
ふてくされたように吐き出された言い訳に呆れながら、一は溜息をついた。
「それ以上痩せたら、お前死ぬぞ」
優姫はしぶしぶ箸でおにぎりを切り分け、もそもそと口へ運ぶ。しかし結局、弁当を半分も食べられないまま昼休みは終わってしまった。
そして放課後――。
さすがに体調に支障をきたし始めたのか、優姫はふらふらと窓拭きをしていた。
これ以上、見ていられない。
今日は当番を勘弁してもらって、担いででも連れて帰ろう。そう決意して、一が運んでいた机を置いて近寄ろうとしたときのことだ。
「お姫さん、客だぞ」
戸口で、浩太が優姫に向かって手招きした。
優姫ははっと顔を上げて、雑巾を置いて応えた。意地っ張りの彼女は、いつだってぎりぎりまで平静を装う。それで突然倒れてしまうのだから、堪らない。
戸口で誰かと話しているようだが、松山が邪魔で相手はよく見えない。
優姫は少し話したあと、そのままふらりと教室を出た。
「おい戌亥、さぼるなよ」
浩太の声に、一はしぶしぶ机を持ち上げる。
「まったく、お姫さんは忙しいよなぁ」
松山は箒で手際よく掃除しながら、肩をすくめた。
「優姫、誰と出てったんだ?」
「ああ、なんだっけな……確か一年の女子」
「一年?誰?」
「多分な。リボンが紺だったからさ。名前は知らねぇ」
この高校では、学年ごとに女子生徒は胸のリボンの色が違う。今年の配色は、一年は紺、二年が緑、三年は赤だった。比べて男子生徒は上履きの縁取りの色が違うだけで、制服に大きな違いはない。
「へぇ、珍しいな」
少し訝しく思ったものの、そのまま一は掃除に戻った。
このとき一には、知る由もない。
守り続けていた自分の居場所が、どれほど脆く、壊れやすいものなのか。
――ブブブブ。
一が教室で優姫を待っていると、ポケットで携帯電話が震えた。
「なんだよ、こんなときに」
敷地内では携帯電話の使用が禁じられている。電源を止めようと携帯電話を開いた一は、目を見開いた。
「な、なんで」
――神楽坂。
発信元は、神楽坂本家からである。こうなってしまうと、校則などに構っていられない。一は教室を飛び出すと、トイレに飛び込んで通話ボタンを押した。
「もしもし!」
『出るのが遅かったじゃないか。もう授業は終わっているはずだけれど』
「学校の敷地内では、携帯電話の使用を禁じられているんです」
溜息をついて一が答えると、軽やかな笑い声が耳を突く。
『律儀にそんな校則を守っているのかい?バカみたいに従順なんだねぇ。さすが、優姫さんの犬を務めるだけある』
「……優姫ならいません。用がないなら切りますよ」
電源ボタンを押そうと携帯電話を耳から離すと、待ってと呼び止める声が聞こえた。
『優姫さんはいない方が助かる。今日はきみに用があって電話したからね』
「俺にですか?」
『かなり個人的な話。優姫さんがいなくて助かったのは、君のほうかも知れないね』
「真哉さん。そうやって性格悪そうな喋り方するから、優姫に嫌われるんですよ」
『僕は人に嫌われるのが趣味なんだ』
そんなことを言って、笑う。
本当に、掴みどころがない。
優姫はあからさまに真哉のことを嫌っているが、一は彼のことを嫌うことができなかった。確かにどうしようもなく意地悪で、ときどき度が過ぎるほどに冷酷だ。しかしそれは、神楽坂グループの今後を背負う立場として彼が見出したある種のスタイルのような気がした。
何より、彼は少し自分近い部分がある。
だから、優姫とは遠ざかるのだが――。
「あなたは頭が良いんだから、もっと好感度を上げる喋り方も言葉も選べるでしょう」
『きみこそ、優姫さんが欲しいなら欲しいと彼女に言えば良いのに』
「何の話、ですか」
『女として彼女を見ているんだろう?』
「バカなことを言わないで下さい。主人に欲情する犬がどこにいるんです。変な憶測をするのはやめてください」
『じゃあ、僕が頂いてもいいんだね』
「……できるなら、勝手にすればいいでしょう」
『僕が彼女を抱いても平気なのか?』
「優姫がそれを望むなら」
煽られるな。自制しろ――。
一は自分を抑え、空いているほうの手を力いっぱい握り締めた。
爪が食い込んで、痛みが走る。
『はは、従順っぷりもそこまで行けば犬というより、鶏(ニワトリ)だね」
一瞬の、沈黙――。
それを絶ったのは、真哉の方だった。
「犬だの主人だの言ってるけれど、きみたちは所詮人間だよ」
本当、苛々するな――。
回線は一方的に切られ、電子音だけが残った。
「俺に、どうしろって言うんだよ」
一は苛立ちを露にしてそう吐き捨てると、携帯電話の電源ボタンを力任せに押す。
握り締めていた右手を開くと、掌に血が滲んでいた。
「……こんな手で」
優姫に触れるなんて、死んでもごめんだ。
◇