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本当なんて、欲しくなかった。
愛 犬 服 従 歌
05 背徳の雨
「あなたにとって、一くんとはどんな存在なんですか?」
――神楽坂真哉(かぐらざか しんや)。
神楽坂本家直系の血筋に生まれ、現院長の嫡子であり、某有名医大を主席で合格した。医者になるために生まれ、医者になるためだけに英才教育を受けてきた。大学へ入ってまだ2年だが、大学の課題をやる傍らで、多くの論文を書き上げている。
そして、若干20歳にして神楽坂グループを統べる立場にある。
「相変わらず、無礼なのね」
部屋へ優姫を呼びつけて置きながら、椅子から腰を上げるどころかノートパソコンと資料から視線をまったく動かさない。どうせまた、小難しい論文でも書いているのだろう。優姫は不愉快を隠そうともせず、仏頂面のまま、ソファに座った。そして、毎度同じ理由でため息をついて見せる。
「やっぱりあんたのこと、好きになれないわ」
「ひどいなぁ。そういうことは、心の中でこっそり思う不満ですよ」
まったく傷ついているようには思えない口調で真哉が返すと、
「わたしは嘘と隠し事が嫌いなの」
優姫もまた、偽りに満ちた笑顔を返した。
こんな関係が、もう7年も続いているのだから笑ってしまう。
「そんなことよりも、僕の質問に答えていただけませんか?」
「そんなことを聞くためにわたしを呼んだの?大事な話があると言っていたくせに」
「これもその一部です」
さらりとそう言って微笑み、真哉は初めてディスプレイから視線を上げた。
「あっそう。でもなぜ、今更そんなことを聞くの?以前から言っているはずだけど、イチは」
「彼は人間です」
きっぱりと、真哉は言う。
「フィジカルにおいても、メンタルにおいても、誰が見たって人間に分類されますよ。あなたは犬だ犬だと言いますが、彼は人間という定義において何一つ劣っていない」
――どこから見たって、まっとうな人間ですよ。
そう言いながら、彼がキーボードを叩く速度と精度はまったく落ちない。部屋には音楽もテレビもついておらず、真哉の指がキーボードを叩く機械的で無機質な空気で満ちていた。
少しの沈黙あと、真哉はくすりと笑みをこぼした。
「あなたたちは、本当に滑稽ですねぇ」
「……くだらない。もう帰るわよ」
ソファから立ち上がった優姫がドアを開こうとすると、いつのまにか鍵がかかっている。しかし優姫は冷静な表情のまま振り返り、怪訝そうに首を傾げた。
「どういうつもり?」
「言ったでしょう。大事な話があるって」
そこで真哉はやっと立ち上がり、ソファの前に据えられたローテーブルに1枚の書類を置いた。優姫がしぶしぶソファへ戻ると、書類を手に取った。
「何、これ」
「あなたの犬のことを調べました」
「は?」
優姫はもう一度、視線を戻す。
そこには、一の遍歴が事細かに記されている。優姫はすばやく目を通し、その書類を握り潰した。そしてそれをテーブルに捨て、真哉に詰め寄った。
「なんで、こんな勝手なことをするのよ!」
「そのうろたえよう、やっぱり知らなかったんですね。まぁ、知っていたらあんな風に彼の傍にはいられないでしょう」
「どうでもいいことだわ。こんな、こんな人の過去を暴くようなこと――最低だわ。わたしは認めない。全部取り消して!」
「思い上がらないで下さい」
いたって冷静に、真哉は返した。
「あなたには神楽坂に意見する権利などないんですよ。勘違いも甚だしい」
手が伸びてきて、優姫の首筋を捕らえる。
五本の指が優姫の首に絡みつき、軽く力を加えられた。呼吸はできる程度の、やんわりとした締め付けだった。それでも優姫の呼吸は止まり、指先は小さく震えた。
そんな彼女を真哉は無感動に見下ろし、口元に酷薄な笑みを作って言った。
「あなたの命は7年前から神楽坂のもので、僕のものなんだ」
この世界に、あなたの所有物(モノ)なんてひとつもない――。
「来てたの?」
玄関を出ると、傘を2本持った一が立っていた。
玄関脇の壁にもたれかかって立つ彼は一度帰って着替えたようで、制服ではなくラフなパーカーとジーンズを合わせている。優姫を見つけると、嬉しそうに瞳を和ませて笑った。
一の姿を見つけただけで、途方もなく安心する。
「雨降ってきたから迎えに来たんだ」
彼の言うとおり、外はひどい雨だった。
天気予報では、今週いっぱい晴れの予定だったはずだ。まったく当てにならないではないか。優姫は大袈裟にため息をついて、一から傘を受け取って歩き出した。
「過保護ね。これくらいの距離、濡れたって平気だったのに」
「今日は冷える。濡れるのは良くないよ」
「冷えてるのはどっち?」
空いている方の手を伸ばして、一の手に触れる。慌てて手を引っ込められてしまったが、一瞬触れた指先が凍りのように冷え切っていた。地面の濡れ具合からして、雨はずいぶん前から降っていたようだ。おそらく、優姫が神楽坂邸に入って間もなく――。
「せめて中で待ちなさいよ」
「あの家は、俺みたいなのには敷居が高い」
苦笑した一は軽やかにステップを踏みながら、起用に水溜りをかわしながら歩いていく。
その少しうしろを歩きながら、優姫はそっと考える。
初めて出会ったときは痩せていて背も小さかったのに、今では優姫よりもずいぶんと背が伸びた。優姫が手を引いてやらなければどこへも行けなかったのに、すらりと伸びた足でどこへでも行けるようになった。小さかった掌も大きく広がり、もう優姫の手では包んでやることはできない。
どうして、優姫を置いて勝手に成長してしまうのか。
――あなたにとって、一くんはどういう存在なんですか?
真哉の言葉が脳裏をよぎり、部屋の前までたどり着いたとき口を開いた。
「……ねぇ、イチ」
「なに?」
「足先の感覚がないの。冷えちゃったみたい」
舐めて、溶かして――。
一は、何も言わなかった。
優姫について部屋に入り、黙ったまま靴下を脱がせる。そして跪き、優姫の足を手に取った。おそらく優姫よりもずっと冷え切っているだろう指は冷たく、それでも優姫は身じろぎひとつしない。一はちらりと優姫を見上げて目だけで微笑んで見せると、そっと親指に口付けた。
そしてゆっくりと、口を開いて指を食む。
こんなの、人間同士の関係ではない。
しかしそれも、当然のことだ。
自分は主で、一は犬なのだから――。
口腔内のあたたかさに膝が震え、それでも優姫は満足げに微笑んだ。
手を伸ばして、見かけよりもやわらかい髪に指を通す。
「良い子ね」
◇
[2回]
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